太郎さん

その後お変わりありませんか。

わたしはいま、札幌市内の外人ハウス（外人専用の安宿）に泊まって、この手紙を書いています。一ケ月前に札幌に来てからというもの、予期しなかったことの連続で、気持ちがすっかり混乱しています。

二月二十六日夜、わたしは新生活への夢に胸をふくらませ、マックスのうれしそうな笑顔を想像しながら千歳空港へ着きました。

けれどもそこに待っていたのは、「このやっかい者が、何しに来た」とでも言わんばかりの、苦虫を噛みつぶしたような顔をしたマックスでした。

わたしは、（彼はきっと、札幌に来て一ケ月半たってもまだ仕事がみつからず、労働ビザも取れそうにないので落ちこんでいるだけなのだろう…）と思い、その事についてそれとなくたずねたり、別の話題をもちかけたりしてみました。

でも彼は、いかにも面倒くさそうに短くあいまいな答えをしたり、全く無視したりするだけでした。

マックスがわたしにそんな態度をとることは、これまでになかったことなので、（一体どうしたんだろう…）と心配になりました。



アパートに着いてからも、この彼のよそよそしい態度は変わらず、朝から黙りこくって日本語の問題集をやり、夕方になるとプイッとどこかへ出かけて行っては夜中に帰って来ました。

わたしは満たされぬ思いのまま、彼のズボンの破れたのを繕ったり、日本語の動詞と形容詞の活用がわからないという彼のために活用表を作ったりしていましたが、三日目の朝、思いきってたずねてみました。

「あなたはこれからどうしようと思っているの？」
マックスはしばらく沈黙していましたが、やがて下を向いたままブスッと、
「わからない。……あんたはどうするつもりだ」
「まあ！　わたしはサンフランシスコで約束したように、どこへでもあなたについて行くつもりよ」
「…………（沈黙）…………」
「どうして、どうするつもりかわからないの？」
「……（沈黙）……今は決められない」
「いつになると決められるの？」
「……（沈黙）……チャンスを待っている」
「どういう風に？」
「…………新聞や雑誌の求人広告に目を通している……。南米などに支店を持つ米国の大手建設会社が求人をすることもあるし、ニュージーランドに仕事があるという話も聞いた」
「ああ！ ニュージーランドは、のどかで、人々が素朴で、住みやすい所だそうね！」
「…………（吐きすてるように）人生を隠退したやつが住む所だ」
「じゃあ、北海道は？」
「…………北海道も同じだ」
「あなたは、静かで平和な生活をしたいと思ってたんじゃなかったの？」
「…………前にはそう思ったが、今はもっと冒険に満ちた生活をしたいと思うようになった……。俺はまだ三十五才だ。隠退するには早すぎる……」
「冒険に満ちた生活って、たとえば？」
「……たとえばフリーのジャーナリストになって、政治的に不安定な地域に行き、ニュース写真を撮ったり報告記事を書いて来て、それを新聞社やニュース雑誌社に売るとか……開発途上国に行って、だれかと協同で建設会社を起こすとか……自然破壊の進んでいる地域に行って、破壊の程度を調査する仕事をするとか……大自然の中で、動物や植物が乱獲されないよう見まわりする監視員の仕事とか……アラスカに自分で家を建てて少し住み、それを売ってまた新しい家を建てるということを繰り返して、その利潤で生活するとか……いろいろだ」
「みんなおもしろそうね。どれか一つを選んで、やればいいじゃないの？」
「…………（沈黙）…………」
「そういう生活を一人でやりたいの？」
「…………それはどの仕事を選ぶかによる。……危険を伴う仕事なら、一人でやることになるだろうし……そうでないなら、連れがいても構わないだろうし……」

（今さら何という無責任なことを言うのだろう！） わたしは重苦しい気分になりました。



その日の午後、マックスがちょっと出かけていたときに、マヌエラという女の人から電話があり、「マックスに電話をくれるように言って下さい」と言いました。

帰って来たマックスに伝えると、彼はすぐ電話をし、「旅行社」とか「それは安いね」などと話していました。

外国での仕事の情報が入ったのかと思い、「どこか外国に行く話？」とたずねると、マックスは「ビザの更新のために、韓国に行く話だ」と言い、それから急に思いついたように、「札幌の町を見たくないか？　これから旅行社を何軒か回ってみるから、その後でいっしょにラーメンでも食べよう」と言いました。

わたしは、札幌に来て以来はじめての、このマックスの誘いかけにうれしくなり、うきうきして出かけました。

旅行社では、「韓国へはお一人で行かれるのですか？　二人以上だと割引がありますが」と問われてマックスが「二人です」と答えたので、（あれ？　二人って、わたしのことかな）と思いましたが、彼は何の説明もしてくれず、わたしに通訳をさせて、自分の知りたい情報だけを集めて帰りました。



翌朝、彼は旅行社へ行って来ると言って、一人で出かけて行きましたが、すぐに帰って来ました。

「あら、旅行社に行かなかったの？」
「航空券を予約した」
「ああ。それじゃ、やっぱりビザを更新して、北海道に住むことにしたのね。冒険に満ちた生き方をするんじゃなかったの？」
「あれはただの夢さ」

マックスの応えは、いかにも面倒くさそうです。

そして、いつの出発日にしたのか、どの旅行社にしたのか、とたずねても、口ごもってあいまいな答えをし、わたしは（韓国へ行くって本当だろうか？　いったいマックスは何を考えているのだろう？）と、不信感と疎外感がつのるばかりでした。



翌日の昼間、彼が出かけていたとき、またマヌエラから電話がありました。はつらつとした声の、流暢な日本語です。

「マックスは、旅行社へ行きましたか？」
「航空券を予約したと言ってました」
「一人分ですか？」
「二人で行くと言っていましたが……」
「ああ、それはわたしのことです。マックスに、二人とも韓国へはビザ無しで入れるとわかったと伝えてください」

わたしは、（きっと二人がたまたま同じ時に日本のビザが切れ、マヌエラがその更新のための情報に詳しいので、マックスに教えているのだろう……）と思いました。

帰って来たマックスに、マヌエラからの伝言を伝えると、マックスはまた何も言わずに出かけて行きました。



その夜遅く、マックスは帰って来るなり、いらいらした様子でタバコをふかしだし、ソファーに腰かけていたわたしの隣に、いきなりドン！と腰をおろして言いました。

「ユーコ。あんたと別れることにした。すぐに出て行ってくれ」

わたしは頭から氷水を浴びせかけられたような気がしました。

「どうして？　わたしが何か悪いことをしたの？」
「あんたは何も悪いことはしていない。これ以上は、何も言えない」

そう言うなりマックスは、立ち上がってバタバタと動きだしました。

「別れたいというのなら別れるけど、このまま訳もわからず出て行くことはできないから、その理由だけは聞かせて」

マックスは固い表情をして口を結んでいます。

わたしはいろいろに言葉を替えて、頼んだり質問したりして食い下がりました。

するとマックスは、やっとぶっきら棒な調子で、「ある友達がいて、たぶん妊娠している。彼女と結婚しなければならない」と言い、それから後は、わたしが何を言っても無視するだけでした。



わたしはあれこれ考えました。

この人は、札幌に来てからつきあいだした女性を妊娠させてしまい、相手かその親から責任を取るよう迫られてでもいるのだろうか？

でもそれなら、長年心を開いてつきあってきて、せっかく築いたサンフランシスコの生活も捨ててはるばるやって来た、わたしへの責任は取らなくてもいいと思っているのだろうか？

もしかしたら、相手の女性は、マックスが結婚しないと悲観して死んでしまうというような弱い人なのかも知れない……

それとも彼は、自分の子供が欲しくなったから、子供を産めないわたしよりも、その人を選ぶことにしたのだろうか？　そう言えば、サンフランシスコに来た時、「以前は子供を持つなどということはゾッとすることだったが、今は子供もいてよいと思うようになった」と言っていたし……

でも、そういうことになっていたのなら、どうしてわたしが札幌に来る前に言ってくれなかったのだろう？　つい三週間前に、札幌から心のこもった手紙をくれ、そのあと国際電話までしてくれて、「アパートをみつけたから、一日も早く来てほしい」と言っていたのに……

そしてわたしが札幌に来てからまでも、どうして「冒険的な仕事につくことを考えている」などとごまかしたり、ビザの更新のことを隠したりしたのだろう？　これまであんなに心を開いてつきあってくれた人が……

と、どうにも納得できない気持でした。



でもマックスがどうあっても心を開いてくれようとはしないので、これはもう、諦めるしかないと思い、これからどうしたらいいだろうと考えました。

これまでは、辻芸人として自己表現能力を開発していく夢や、インディアンの賢者の弟子になって自己解放の修行をする夢に支えられて生きてきたのに、一ケ月半前、マックスといっしょに生きようと決めたとき、「新生活に過去を持ちこまないでほしい」という彼の要望に従って、その夢をすっかり消し去ってしまうことを決心し、かなりのエネルギーを費やしてそれに成功し、以後はマックスとの新しい生活の計画や夢を心の中でふくらませ続けていました。

それなのに、その夢も、わけもわからないまま急に取り上げられて、わたしは抜けがらになってしまったような気がしました。

それで、しばらくは瞑想所にでもこもって心と体を癒し、エネルギーを取り戻して また一からやり直そうと思い、以前デイヴが「すばらしい所だ」と手紙に書いていた、カナダの瞑想センターに行くことにしました。

この数日のストレスで また子宮が痛み、固くなっているように感じていましたが、その瞑想センターでは、瞑想のほかに、厳格な食事療法や呼吸法、身体療法なども指導、実施しているということなので、きっと体にも良いのではないかと思ったのです。



翌朝、さっそくセンターに申し込みの手紙を書き、マックスに、「手紙の返事が来るまでの二週間、ここに泊めてほしい」と頼みました。

すると彼はきつい顔をして、「それはダメだ。明日かあさって中に出て行かねばならない」と言い、そのわけをたずねても、答えてくれようとはしませんでした。

わたしは本当に意気消沈しました。

そして昼頃マックスが出かけて行ったあと、市内のユース・ホステルに電話をかけ、泊まる所がなくて困っている事情を話し、二週間泊めてくれるよう頼みました。

すると電話に出た受付の男の人は、「それはお困りでしょう。ユース・ホステルの規則では、続けて三日以上は泊まれないことになっているのだが、特別に管理人さんに頼んであげましょう」と言ってくださいました。



こうして落ち着き先が決まり、見ず知らずの他人のこのやさしさに触れてみると、あらためて、今まで四年間心を開いてつきあってきたマックスの、このあまりにも身勝手なやり方に腹が立ってきました。

それで腹いせに、彼に損害賠償を請求することにし、翌朝、「ユース・ホステル二週間分の宿泊代と、サンフランシスコ→札幌、札幌→カナダの航空券代として、二十万円を払ってほしい」と言ってみました。

すると意外にも、マックスはあっさりと承諾し、すぐに銀行に行ってお金をおろして来て、請求額よりもやや多目のお金をわたしにくれました。



それでわたしは彼に悪いことをしたような気持になり、「あしたの朝は出て行くから、安心してね」と言うと、マックスもこれで問題が終わったと思ってほっとしたのか、なごやかな表情になり、日本語の問題集をやりだしました。

そして、わからないところをわたしに質問し、わたしが答え、そのうち彼は東京にいた頃の二人の共通の友人についてもあれこれとたずねだし、わたしの応えに興味深そうにうなずいたり、笑ったり、自分の感想を述べたりするので、わたしもいつのまにか我を忘れて夢中になって話し、気がついてみると、わたしのマックスへのわだかまりはすっかり消えてしまっていました。

そして二人ともお腹がすいてきたので、前日彼が買って来ていた焼き魚の冷たくなったのを二人で交互にかじりついているうちに、（東京にいた頃、いつも二人で山歩きをして、よくこんな風に一緒に食べたものだったな…）と想い出し、途端にそれまで押さえていたものが一気にこみあげてきて、わたしは泣きだしてしまいました。

するとマックスは、何も言わずにわたしを抱きしめ、その腕に何度も何度も力をこめて骨が砕けそうなほど締めつけ、わたしの興奮がおさまると、思いをこめたような目をしてじっとわたしを見つめました。

それでわたしは（マックスはきっと何か言うに言われぬ事情があってわたしと別れなければならなくなり、わたしを傷つけることを思って苦しんでいたのだろう…）と思い、（こんなやさしい人とも、明日は別れることになるのだな…）と、何とも言えない悲しい気持になりました。



夕方になると、マックスはまたどこかへ出かけて行き、夜中の十二時半頃帰って来るなり、わたしの方は見向きもしないで、わたしの目の前にすわって電話をかけだしました。

「ああ、マヌエラ。ビザのことで聞きたいことがあるから、今すぐどこかで会えないか？ （…………）終電で来て、タクシーで帰ればいいじゃないか。（…………）いや、実を言うと、ビザのことと言ったのは口実で、ほんとは淋しくてたまらないから、君に会いたいだけなんだ。（…………）ああ、友達が一人来ているけど、明日は出て行くよ。（…………）え、彼女と日本語で話したの？ （…………）ああ、彼女は全部、了承しているよ。（…………）いろいろな種類の友達がいたからって、それが友達を次々に替えるということにはならないだろう？ （…………）不可思議？ 俺は状況次第で、時にはスーツも着るし、時にはヒッピーのようなかっこうもする。別に不可思議ということはないさ。（…………）韓国旅行、待ちどおしくてたまらないよ。（…………）ラブ・ホテル？ （…………）うん。では、一時半に」

聞いているうちに、わたしはムラムラと腹が立ってきました。

（ああ、では、このマヌエラとの仲が、わたしを追い出す原因だったんだ！　マックスは今まで、わたしがあれほど頼んでも、別れる理由を直接説明してわたしを納得させてくれようとはしないでおいて、わたしが今日の午後の彼とのあの交流ですっかり心がやわらぎ、明日の朝は出て行こうとしている今、それもこんな真夜中に、わざわざわたしの目の前で電話をして、自分とマヌエラとの仲がどんなに深いものであるか、それに比べ、わたしが彼にとってどんなに取るに足りない存在であるかをわたしに見せつけ、思い知らさせようとしている……。何という卑劣なことをする人なんだ！）

電話が終わるや否や、わたしはそのことを言って彼をなじりましたが、マックスは無視してマヌエラに会いに出かけて行きました。



明くる朝になっても、わたしの腹の虫はおさまらず、（そんなに何でも都合よくマックスの思い通りになってたまるものか！　損害賠償だって、もっとふんだくってやる！）と思い、もしカナダの瞑想センターで受け入れてもらえなければ東京で働かなければならないのだから、東京のアパートの入居費（安アパートの一ケ月の部屋代、敷金、礼金、不動産屋の手数料）と、札幌→東京の電車賃を計算し、前日もらった分との差額の支払いを要求しました。

するとマックスは、「もう、金はない」と言います。

「それなら、わたしは二週間、ここにとどまる！」
「それはできない」
「できようが、できまいが、そんなことは知ったことじゃない！　あなたも、わたしができようができまいが、今すぐ出て行け、と無茶なことを言うのだから！」

マックスはしばらく考えこみ、「マヌエラに、金を借りられるか相談してみる」と言って、出かけて行きました。



そして一時間くらいして、荒々しい音をたてて帰って来ると、靴をはいたまま、ズカズカと畳の上にあがって来て、「金はない。今すぐ出て行くんだ！」と言って、わたしの手をひっつかもうとしました。

わたしはそれを振り払い、隣の部屋のソファーの上にデンとあぐらをかいて座り、タバコに火をつけました。

彼はわたしの前に立ちはだかり、恐ろしい顔をして「出て行け！」と言う。
わたしも彼を睨みつけ、「出て行くものか！」と言う。

そのまま睨みあいが始まり、そのうちわたしが手に持っていたタバコからは、灰がぽろぽろとわたしの膝の上に落ち、だんだん短くなって、火が手につきそうになってくるし、また、すわった状態からすぐ前に立っている背の高いマックスの顔を見あげているので、首が疲れてきましたが、（いま目をそらしたり、気をぬいたりしたら、わたしの負けだ）と思って、必死に睨みつづけ、頭の中では、（いま彼がわたしの荷物を全部窓から外に放り投げ、わたしを抱えて戸の外に放り出して、内側から鍵をかけてしまったら、終わりだな……。もしそうなったら、わたしは大声でわめいたり、戸をたたいたりして、できるかぎり騒ぎを大きくしてやろう……）と思ったり、（もしマックスが怒り狂って、わたしを傷つけたり殺そうとしたら、どうなるだろうか？　いや、そういうことをすると、自分もマヌエラと暮らせなくなるのだから、それはしないだろう……）と思ったりしていました。

そうしているうちに、マックスの方が根負けして目をそらし、すわってタバコに火をつけたので、わたしもほっとして、短くなっていたタバコをいそいで揉み消しました。



それからマックスは出かけて行き、一時間くらいして、外から電話をかけてきて、ほがらかそうな声で、「最近いろいろな問題が重なったため、気が立っていて、あんたに当り散らしてしまった。どうか気を取り直してくれ」と言いました。

わたしは、（何をそらぞらしい！　きっとマヌエラに、わたしの懐柔策を吹きこまれでもしたのだろう）と思いました。

しばらくしてマックスが帰って来てからも、わたしは毛布をひっかぶってソファーに横になり、翌日も、そのかっこうで、ストを決めこんでいました。



そこへ東京の桃子から電話がかかってきました。彼女へは、その前日わたしから電話して、ここを出て行くことになったことを伝え、「今後わたし宛の郵便物は、あなたの所に転送してもらうよう、郵便局で手続きしたので、引っ越し先が決まるまで預かってほしい」と頼んだばかりでした。

桃子は、「木村さんが、清掃員の仕事の空きがあって、寮も付いていると言ってるの。わたしもあなたに会いたいから、ぜひ東京にいらっしゃいよ」と言いました。

この桃子のやさしい言葉と声を聞いて、はりつめていたわたしの気は急にゆるみました。

そして（いつまでもこんなことをして、自分とマックスを苦しめていても仕方がない。もう諦めよう）と思い、すぐにユース・ホステルに電話して、「今日から二週間、泊めてください」と頼みました。

すると受付の男の人は、「管理人さんに相談してみたら、やっぱり二週間はむりで、十日が限度だそうです」と言いました。

それでマックスに、「四日後に、ユース・ホステルに移ることにした。それまでは、ここに泊めてもらうからね」と言うと、マックスは渋々と、市内の外人ハウスの電話番号をわたしに教えてくれました。

外人ハウスの電話に出た女の人は、「あなたを泊めるかどうかは、面接してみて決めたいので、すぐに面接に来てください」と言います。

わたしはさっそく面接に行ってみました。



そこは十階建てビルの中にある小さな英語学校で、外人ハウスはその学校の専属の寮になっており、市内に二軒あるということでした。面接してくれたのはその学校の経営者で、わたしと同年齢の順子さんという女性でした。

わたしが事情を話すと彼女は同情してくれ、「うちの寮に、ユース・ホステルより安い特別料金で二週間泊まれるようにしてあげましょう。ただし、あと四、五日しないと部屋が空かないので、それまではこの学校に泊まっていればいいでしょう」と言ってくださいました。

学校といってもカーペットを敷いた十畳と十五畳くらいの部屋が二つあるだけなのですが、十五畳くらいの部屋ではあと三日間は授業がないので、わたしはそこに泊まり、授業があるあいだは、もう一つの部屋に行っていればよい、というのです。



順子さんは、若いときから一年に四十日ずつ、毎年一人で外国旅行をしてきて、旅先でいろいろな人から受けた親切が身にしみたので、そのお返しとして英語学校と外人ハウスの経営を始め、外国からきた貧乏旅行者や、外国から帰ってきて日本社会に適応できないでいる日本人たちの世話をしているのだそうです。

そして、彼女の考え方に共鳴した弁護士と、医者と、不動産屋と、タクシー運転手さんが、無料奉仕で彼女のために働いていて、

・順子さんは、旅行者が職さがしや部屋さがしをするときの保証人になってあげ、英語教師に向きそうな人には彼女の学校で職をあたえ、
・弁護士さんは、旅行者が労働ビザをとるときの世話を無料でしてあげ、
・お医者さんは、病気になった旅行者を無料で診察してあげ、
・不動産屋さんは、権利金や礼金のいらない安アパートを世話してあげ、
・タクシー運転手さんは、その引っ越しを手伝ったり、市民から寄贈される布団やストーブなどを外人ハウスに運んであげたり、食事代にも事欠く貧乏旅行者のために、自費で食料を買って届けてあげたりしているのです。

まるで一心太助のような、驚くべき人たちです。



そして、そうやって人助けの方にばかり金をつぎこむので、皆、自分自身の生活のやりくりには苦労しているそうですが、「人助けをしている」といった悲壮感はなく、あけっぴろげで、ざっくばらんで、順子さんは初対面のわたしにも、自分の人生観や恋愛体験など個人的なことを億面もなく話しだすので、わたしもつられてマックスとのことやサンフランシスコのことなど、個人的なことを洗いざらい話し、おかげですっかり気が楽になりました。

また順子さんは、この事業のほかにも、女性の地位向上を推進する組織や、世界の飢えと貧困に苦しんでいる地域に食料や義援金を送る組織のメンバーとしても働いているそうです。

わたしは、（日本にも、こんなに理想に向かってやりたいことをやり、言いたいことを言って、楽々と生きている人たちがいるのだな…）と頼もしく思い、今まで大げさに考えていたマックスとの個人的な問題など、たいしたことではなかったように思えてきました。

そして（人間は、その置かれた状況によって、人助けもすれば、人を傷つけもする。マックスも、ああいう生真面目な性格だから、この一ケ月半の短いあいだに、よっぽど激しい恋に落ちて、正気を失ってしまっているのだろう。それも仕方のないことだ…）と思いました。

そして、さっそくその夜からこの英語学校に泊めてもらうことになり、ユースホステルには断りの電話をかけました。

順子さんは、すぐ近くにある自分のアパートから、布団を運んで来てくださいました。



その後、タクシー運転手さんは、わたしのために、食べきれないほどの量の食料をあれこれ取り揃えて届けて下さるし、順子さんと弁護士さんは、忙しい時間をさいて、わたしの様子を見に来たり、レストランに連れて行って食事をごちそうして下さるし、本当にこの人たちのあたたかさは身にしみます。

また順子さんは、
「マックスは一ケ月半前に、ここに仕事と部屋の斡旋をたのみに来て、その後も毎週一回、日本語教室に通って来てるのよ。マヌエラとは、この日本語教室で知りあったのでしょう」とか、
「マヌエラは最近、マックスにつきまとわれて困ってるって、うちの職員に話していたそうよ。彼女は、日本人のボーイフレンドといっしょに住んでるんだから。きっとマックスは、片思いなんじゃないかしら」
というようなことも話してくれました。



英語学校に泊まって三日たち、そこの居心地の良さになじんで、気持もすっかり落ちついていた時、突然マックスから電話がありました。

「自分のやったことを後悔している。もう一度始めからやり直したいから、どうか戻って来てほしい」と言うのです。

わたしは、（一体どうしたのだろう？）と思いましたが、ともかく話を聞いてみようと思い、マックスの所に出かけて行きました。

そしてその結果、どうもマックスは、本心から後悔しているのではなくて、マヌエラとの間がうまく行かないか何かで、迷いが出てきているだけのように思えました。

それで、「そんな一時的な気分で決めないで、もっとよく考えて決めてよ。ともかく二週間だけ、あなたの所に泊めてもらうことにするから、そのあとで確定的なことを聞かせてほしい」と言うと、マックスも了承しました。

それでわたしは、また英語学校まで荷物を取りに行き、手配してもらっていた外人ハウスの宿泊をことわって、マックスのアパートに戻ったときには、夕方になっていました。



すると三十分後にマックスが帰って来て、ムッとした顔をして言いました。
「どうして食事の仕度をしてないんだ」

わたしは驚いて、
「あら、あなたが食事の仕度をしてほしいと思ってたなんて、知らなかった。お腹がすいたのなら、自分で食料を買って来ればよかったじゃないの。帰りにスーパーの前を通ったんだから」

「食事の仕度は女の仕事だ」

そう言うなりマックスは、汚れ物を抱えて来てドサッとわたしの上に放り投げ、
「それも洗っておけ」

「どうして？　ここに洗濯機があるんだから、自分でやればいいじゃない。あなたは今までいつも自分でやってたじゃないの」

「今までは、ほかにやる者がいないから、仕方なくやっていたんだ。料理や洗濯は女の仕事だ」

「何てこと言うの。わたしはあなたのために料理や洗濯をするのを嫌だとは思わないけど、それはたまたまわたしがそれをしたいと思えばやることで、それが女の仕事だからやるわけじゃないよ。どうしてそれが女の仕事なの？」

「男が外で働き、女が家で家事をやるというのが、どこの社会でも正常なんだ」

「正常って、何のことよ」

「大部分の人間が従っている伝統的なやり方だ」



わたしは本当に驚いてしまいました。

東京にいた頃、マックスは《正常》と呼ばれるような価値観には反発し、アメリカや日本の多くの人々が伝統的な考え方やしきたりに盲目的に従って生きているのを、ことあるごとに批判していました。

そして自分の洗濯物をコイン・ランドリーに入れに行くときも、「俺のは少ししかないから、あんたの物も、いっしょに洗って来てあげようか？」と言ってくれたり、また、料理は苦手だと言いながらも、ときには自分の方から申し出て、インドネシア風チャーハンだの、スペイン風オムレツだのを作ってくれたり、あるときなどは、九時間もかけて特性シチューを作ってくれたこともあったのです。

そのマックスが、こんなことを言うなんて！　ほんとに彼は頭がおかしくなってしまったのだろうか？　それとも、何かの魂胆があって、わたしを試そうとでもしているのだろうか？

「これは何かの冗談なの？」と言うと、マックスはむっとした顔で、
「冗談ではない。まじめに言ってるんだ」と言いました。



翌朝、わたしは自分の汚れ物を洗うついでに、マックスの物もいっしょに洗濯機に放りこんで洗い、「わたし、お腹がすいたから、これから食料を買ってきて、料理しようと思うの」と言うと、マックスは「それでいいんだ」と満足そうに言い、自分もいっしょに買物に行って、好みの食料品を買ってきました。

アパートに帰るとすぐ、マックスはコートも脱がずに電話をかけだしました。

そして、英語と日本語の交換レッスンをしているという相手の日本女性と、いかにも親しげに長々と話していましたが、電話が終わるといきなりわたしに、「今夜は友だちが泊まりに来るから、一晩家をあけろ」と言いました。

（そんなバカな！）とわたしは思いました。

「あなたがきのう、わたしを二週間ここに泊めると約束したから、わたしはここに来たんじゃないの。せっかく手配してもらっていたユース・ホステルも外人ハウスも断ってしまったのに、今度はどこへ行けと言うの？　友だちを呼ぶのはあなたの勝手だけど、わたしはここを動かないからね」

「三人でここに寝ると、気まずいことになるから言っているんだ」

「それなら、あなたがその人の所に泊まりに行くか、その人と一緒にホテルに行くかすればいいじゃないの」

「俺が望むことに、おまえは従わなければならない。俺はこの家の主人だし、男で、おまえは女だ。女は男に従うものだ」



わたしはあきれてしまい、もう何を言っても無駄だと思ったので、黙って尺八を吹きだしました。

マックスは「耳ざわりだ！　やめろ！」と言う。
わたしは無視して吹きつづける。
マックスは尺八を取りあげようとし、わたしはその尺八をふりあげて、彼をコートの上から打ちすえる。

それからつかみ合いになり、わたしは「ギャアーッ」と近所中に聞こえるような声でわめきたて、マックスは尺八を取りあげて、窓から外の雪の中に放り投げ、わたしもそこらにあった彼の問題集や、辞書や、住所録を、ぼんぼん外に放り投げ、彼はわたしを押さえつけようとし、わたしは彼の股間を蹴りあげようとし、ついに彼の急所をひっつかんだと思ったとたん、反対側の手首をいやというほどねじ曲げられてギブ・アップ――



わたしはもうぐったりして、

「あなたがどうしてもわたしを出て行かせたいのなら、自分でわたしの宿を手配したらいいでしょう。わたしは、断ったばかりの所にまた入れて下さいと頼むのなんか、いやだから」

マックスは即座に順子さんの英語学校に電話をかけ、まるでホテルの予約でもするように、横柄な口調でわたしの宿泊を依頼をしました。

すると順子さんは、わたしと直接話させてと言い、わたしは電話に出て彼女にわけを話してあやまり、部屋の手配をたのみました。

その結果、この前の外人ハウスはもうふさがっていて、もう一軒の外人ハウスの雑居部屋に入れてもらえることになりました。

マックスはさらに追い打ちをかけるように、「友だちとの約束の時間が迫っている」とせきたてます。

わたしはもうやけくそになって、今朝出したばかりの荷物をまた大急ぎでリュックに詰め、タクシー会社に電話をかけました。

するとマックスが、「ちょっと待て。やっぱり出て行くな」と言います。

わたしはもうほんとに情けない気持ちになり、「いい加減にしてよ！　無理を言って手配してもらっていた所を断って、また無理を言って手配してもらったんだから、もう断ることなんかできない。わたしは出て行きます！」と言い、迎えに来たタクシーで、第二の外人ハウスに行きました。



それから三日後、マックスがわたし宛ての郵便物をあずかっていると電話してきたので、取りに行きました。わたしの日本名の郵便の転送手続きはしてあったのですが、英語名の方の手続きをするのを忘れていたので、サンフランシスコからの転送郵便が届いていたのです。

アパートのドアをノックすると、マックスは日本語で「おかえり」と言いました。

「その表現はまちがってるわね。『おかえり』というのは、家に帰って来た人に言うことばよ」と言うと、マックスは、「また帰って来てほしいんだよ」と言って、にやりと笑いました。

そのくせすぐに、「人に会う約束があるから」と出かける用意をして、わたしを追い立てるのです。

もう完全に もてあそばれている…と思い、やるせない気分でした。